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水玉区切り

教育現場も子育ても、学びはいつも子ども達から。陸前高田市立高田小学校 元校長 金野美恵子さんインタビュー

掲載日  2023年3月12日

執筆者  一般地域ライター

不思議なご縁で、社会人の入り口も定年退職も、どちらも高田小学校だったんです—。
記憶を辿りながら、そっと語り出してくれたのは、元陸前高田市立高田小学校校長の金野美恵子先生。通称ミエセン。数多くの教え子を育てた教員であり、2女1男を育て上げた1人のママ。校長として、高田小学校で震災学習に舵を切られた方でもあります。

陸前高田市で 生まれ育ち、一度は市役所に就職した美恵子先生が、教員になるまでの過程や取り組みの背景。そこには、強い想いと、子育てにも通ずる子どもたちからの学びがありました。(聞き手:多勢ひとみ)

昼は用務員、夜は勉強。とにかく楽しかった”夢への準備期間”

ーー美恵子先生は、どのような経緯で教員になられたんですか?

実は、最初の就職は陸前高田市役所でした。教員への想いはあったものの、高校卒業後の進路を決める時、下に弟がいたこともあって親に大反対されて。「男優先」「女は大学に行かせられない」そんな価値観の時代だったんですね。当時は反抗して、1日家出しちゃいました(笑)

最初の配属先が偶然高田小学校の用務員だったんですが、今でも覚えているのが子どもたちのキラキラした目。向き合っていくうちに、「子ども達の前に立って、自分も人として成長していきたい」そんな想いが日に日に強くなって、やっぱり教員を目指したいと思いました。そこから、昼間は用務員として働きながら、夜に通信教育で勉強をして……4年後、無事教員免許を取得できたんです。

ーー仕事と勉強を両立し続けて夢を叶えられたなんて、すごいですね!

すごいわけじゃなくてね、とにかく楽しい4年間だったんです。思い返せば、教員になりたいと思うようになったのは小学6年生の時。実は私、あんまり真面目な生徒ではなかったんです(笑)でも、叱ってくれる先生の愛情というか、見捨てないでくれる気持ちが嬉しくて。人が好きっていうのもあったかな。好きで、前からやりたいと思っていた夢に向かっていけるなんて、私にとっては本当にありがたいし楽しい時間でした。

夢を叶えた後に気づいた、大切なこと

ーーご自身の成長や変化のきっかけになった出来事はありましたか?

広田小学校でのある児童との出会いが印象に残っています。言葉を選ばずに言うと、我が強いタイプの男の子。その子にある日言われたんです。「僕たちはブドウの一粒一粒の実だ。それぞれが確立したものを持っているのに、美恵子先生はひとまとめにして教えようとしているところがある。個性をきちんとわかってほしい」と。そこから、何度も本音をぶつけ合って……時には泣いてしまった日もありましたね。

ーー今の美恵子先生からは考えられないですね。一体どんな変化があったんですか?

まずは「異質な声を聞く、受容する」ようになりました。人それぞれに主張があり、自分とは異なる意見にも耳を傾け、受け止めることが必要なんだと気づけたんです。今では、どんな時も誰に対しても、相手の話を聴くところから始めています。

ーー年齢に関係なく相手を1人の人間として尊重することは、教育現場でも子育てにおいても大切ですね。ちなみに、先生であり1人のママでもある美恵子先生から見て、”親が子どもと接する上で大事にすべきだと思うこと”は何かありますか?

「手をかけずに心をかけること」ですね。子どもたちは将来的には自立していくことが求められます。家庭の中でも自分でできることはさせていく。一方で、すべてを任せっきりにするのではなく、ちゃんと見ているよというサインは送り続ける。そうすれば、子ども達自身の力で成長していってくれるのではないでしょうか。
かくいう私も、ママとして完璧にできていたわけじゃないんですけどね(笑)

子どもが何を学ぶか決めるのは、大人じゃない。

ーー教員の皆さん、さまざま異動を経験されるイメージなのですが、美恵子先生はいかがでしょうか?

大槌町に5年、一関の東山町に4年、一関の花泉町に3年、合計12年間単身赴任をしていました。今では第二・第三のふるさとと言えるような地域ですが、「教員人生を終える時は陸前高田で」という想いもあり、希望を出して地元に戻ったんです。校長として、気仙小学校と高田小学校にそれぞれ2年勤め、定年を迎えました。

ーー岩手県の内陸で働かれていた時期も長かったんですね。いろんな地域を知った上で、陸前高田の教育の特徴はどこにあると感じられますか?

それはもう、復興教育ですね。どこの学校も防災・減災教育には力を入れているのですが、私が校長として在籍していた高田小学校では、震災時のことを調べるだけでなく「震災をどう乗り越えてきたのか、被災当時から歩んできた道のりを知る・人に聞くことで、これからの復興の担い手になっていく」という”つなぐ”学習をしていました。

ーー11年前のことですから、今の小学5年生より下の子たちは震災を経験していないんですよね。陸前高田で生きていく上で、いざという時に命を守るための準備は本当に必要だと思います。一方で、学校教育として「震災」のテーマを扱うのは難しかったのではないでしょうか?

そうなんです。子ども達がショックで前に進めなくなるのではという怖さがあったり、「まだ震災を思い出したくない」「学習内容によってはOKを出せない」という親御さんもいらっしゃったりして。私自身も両親を亡くしているので、いろんな葛藤や不安がありました。

それでも、震災学習に本腰を入れようと決断できたきっかけは、やっぱり子ども達だったんです。2019年12月にオープンした東日本大震災津波伝承館。一人で何度か足を運んでいると、子ども達にも事実を学んで伝えていってほしいという想いが出てきて。当時、私が校長として勤めていたのは、児童全員が無事避難できたこともあり、比較的震災学習が先進的であった気仙小学校。担任とともに、6年生を連れて行くことにしました。

すると、思いもよらないことが起きました。施設内で学んだ子ども達がいっせいにあの日のことを話し出したんです。「あの時山に逃げたよね」「お父さんにおんぶされたよね」と。そしてすぐに、「また行きたい」「もっと詳しく知りたい」という声が上がりました。

ーー子ども達にとっては、「怖い」という感情よりも「学びたい」気持ちが勝っていたんですね。

そうなんです。その子ども達の声を聞いた時に、「震災学習をするか決めるのは大人じゃないんだ」と気づきました。子どもたちは話したい・知りたい・語りたい・伝えたい……。震災がいつどこで起きても対処できるよう、防災知識と行動を小学生から学んでいけるようにしたいと強く思いました。

その半年後に赴任したのが高田小学校。保護者や教員の皆さんの理解を得られるよう丁寧に準備を進め、ついに震災学習を実施することができたんです。震災を学びながら、学ぶ意味を子どもたち自身で見つけていってくれている手ごたえを感じられました。

ーー過去の学びを未来に活かして生きていく力は、年齢を問わず大切なものですよね。今回のインタビューを通じて、美恵子先生が子ども達と丁寧に向き合い、沢山の学びを得てこられたのがよく伝わってきました。私自身も、固定観念にとらわれず日々接する相手1人1人と誠実に向き合い、成長していきたいです。本日は貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました!

インタビュー・文:多勢ひとみ